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時計へのラブレター

"「心情は理性の知らないところの、それ自身の道理を持っている」 - ブレーズ・パスカル

時計に興味を持ったのはいつかと聞かれることがある(意外と少ない)のだが、実は覚えていない。レストラン評論家に「いつから食べ物に興味を持ったのか」、美術評論家に「いつからアートに興味を持ったのか」と聞くようなものだ。9時から5時までデスクに座っていたら「神様!」と叫ぶような、「ダマスカスへの道」のような瞬間があるかもしれない。私は美術評論家にならなければならない、あるいは、なることを試みて死ななければならない、と。しかし一般的には、批評家というのは成長するもので、あとから振り返って初めて、初期のそのサインに気づくものだと思う。

もうひとつ、人から聞かれ、また自分でも時々思うこと。「いったいどうして、毎日毎日、時計について書くことに人生を費やすことができる? このテーマはあまりにも狭く、人生のより深遠な問題や人間の根本的な性質とは無関係だと思わないのか? なぜ文化や科学、歴史、芸術について書かないのか? または車とか、もっと大きなものについて書けばいいじゃないか? 大人と言われる人間のする仕事なのかこれは? 一体どうしちゃったんだ?」

簡単な答えは、「時計は面白いから」ということだと思う。もっと長い答えは、時計は実にさまざまな意味で興味深いものであり、実際、時計について書き、時計について考え、時計について学ぶことに、職業人生のすべてを(そして仕事以外の人生の恥ずかしいほどの時間を)費やすことができる、ということだ。

まず第一に時計は(以下、時計という場合はクロックも含めた両方を指すものとする)、時間を知るためのものであり、それを可能な限り正確に行うためのものだ。私は時計を見るときさまざまなことを感じるが、そのうちのひとつは、時計が物理学の問題を力学という実用的な技術で解決しようとする試みを、機械という形で実現したものだ、ということだ。また、500年にわたる先人たちの改良への試みの歴史も見ることができる(ガリレオ、ホイヘンス、フック、ブレゲ、ルロワ、ベルトゥー、アーノルド、ハリソン......私のヒーローたちの名前)。 時計の最も基本的な部分は、調和する振動子を発振させ続け、その振動をカウントする装置に過ぎない。しかし、振動子の理想化された数学的モデルから、実際に動く時計に至るまで、時計製造の技術的な魅力は尽きることがない。

実際、時計に込められた願いは、悲劇的とも言えるものだ。可能な限り理想に近づけようと努力するが、できることは多かれ少なかれ漸近的に理想に近づくことだけなのだ。近づけることはできても、決してそこに到達することはできない。磁力や温度といったものは戦うことのできる敵だが、熱力学の法則には勝てないのだ。 そしてエントロピーは、宇宙の熱的死を引き起こすのと同様に、最も勇敢な精密さへの試みを確実に打ち砕くだろう。

第二に、時計は人類の歴史と密接に関係している。例えば、ヨーロッパにおける大航海帝国の変遷を考えてみよう。実用的なマリンクロノメーターが開発される以前は、国際貿易や探検は、海岸線の目印に比較的近い場所で、推測航法やコンパスを用いて行われることがほとんどだった。そのため、外洋を長距離にわたって横断することは非常に危険であり、その結果、それらの方法が不正確な結果をもたらすことも少なくなかった。しかし、マリンクロノメーターの発明により、数マイル単位で自分の位置を把握することが可能になった。マリンクロノメーターがなければ、外洋海軍は存在しなかったし、外洋商船も存在しなかったのだ。箱型、ジンバル式の船舶用クロノメーターがGPSに取って代わられた今日でも、正確な時計は必要だ。GPSシステムの背後には、全体を動かす原子時計があるのだ。

第三に、時計はデザインの進化や施された装飾芸術によって、文化と深く結びついている。エングレービング、レリーフ、マルケトリ、エナメル細工、金銀細工、そしてレーザー彫刻のような近代的な技術など、時計に施された工芸は数え上げればきりがないほどだ。そして忘れてはならないのが、宝石のカットとセッティングだ。自称コレクターや愛好家のあいだでは、宝石のカッティングやセッティングはあまり評価されていないが、独自の技術や挑戦の歴史があり、理解する価値がある(もちろん、貴重な宝石や半貴石、鉱物についても学ぶべきことはたくさんあるが...)。

そして最後に。時計の背後には必ず人がいるということだ。

一般的に、時計作りより簡単に生計を立てる方法はある。人間が耐えしのぶ他の分野と同様に、時計製造にも皮肉屋、知的怠惰、悪徳、想像力に欠けたリスク回避の意思決定が見らるが、自分たちのしていることに非常に深い愛情を持つ人々も不釣り合いなほど多く見受けられる。マックス・ブッサー氏のような想像力豊かな人々、フィリップ・デュフォーのような完璧主義者、グランドセイコーで青焼き針を作る職人の忍耐強い反復作業など。これらは、時計製造が、時計を通じて我々と、名前を知らなくとも非常に熱心で才能ある人々を結びつける活動であることを示すほんの一例に過ぎないのだ。

時計について書きたいのであれば、古典的な機械学と、物理法則が長年にわたる時計職人の努力をどのように形成してきたかについて、しっかりと把握しておくことが必要だ。実用的な機械学を理解し、スイスだけでなく、世界の時計製造の歴史について広く理解している必要がある。

カレンダーや計時の進化も知っていなければならない。基本的な肉眼での天文学を理解していてもいいし、化学や原子物理学の基礎を知っていればクォーツ時計や原子時計などの仕組みを理解することもできる。また、時計が重要な役割を果たす過去と現代の文化的トレンドや場所について、目と耳を傾けておくことも大切だ。さらに、芸術の歴史を知っていることはとても役立つだろう。そして - 贅沢の歴史とその意味についても知っていることも。

なにより(このリストはほとんど包括的とは言えない)、時計について書きたいのであれば、他の文章と同様に膨大な量の練習と、ときには非常に不快な自己分析が必要な技術であることを理解しなければならない。また、ちゃんとした写真が撮れることも必要になる(第二外国語が話せることもプラス。フランス語から始めよう)。

だから、私は時計が好きで、時計について書くのが好きなのだ。時計について書くことは、文化、科学、歴史、芸術......そして人間の本質について書くことでもある。一生やっても、そのテーマの真相にたどり着くことはできない。時計作家や愛好家としての豊かな経験の限界を決めるのは、自分の好奇心だけなのだ。


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